トランシルバニアの森に・２
父上がよみがえり、「ル・フェイ」とその名を呼ばれた。彼女は、嬉しそうに笑った。
恐らくは、父上が呼ばれたその「ル・フェイ」は、あの時私の目の前にいたあの女性ではなく、亡くなった私の母上であったろうと思う。だが、父上が「ル・フェイ」と呼ばれたとき、あの女性は嬉しそうに笑った。
あの女性は、父上を愛していたのだと思う。だが父上は、あの女性を愛していたのだろうか。あの女性が父上を愛していたのと同様に、愛していたのだろうか。
彼女は、私を守ろうとして、カインの攻撃を受けて消滅した。
｢あなたの母上を生き返らせることができず、申し訳ありません。」
そう言って彼女は消滅した。彼女に触れていた手の平から、その質感が消えた。
「もう、良いのだ…。」
そう言った時、彼女は微かに笑ったように見えた。
彼女は分かっていない。実の母上についての記憶など、私にはない。確かに、幼い頃には、母を求めて泣いたこともある。ヴァンパイアとの子である私を産んだ事が、自らの生命を絶つほどに悲しいことであったのかと泣いたこともあった。だが、長じてからはそのようなこともなく、また、母上が私の存在から自殺したのではなく、人間であった父親に殺されたのだと聞き、安堵したのだ。実の母上を生き返らせることなど、私は望んでいなかった。
私が望んでいたのは…。
彼女を、「ル・フェイ」を失ってから１ヶ月が経った。彼女が私の部屋に飾った一輪の薔薇(その時の私はその行為を、人間でもあるまいしと笑った) が日に日にしおれ、枯れてゆくのを見るのは胸が痛かった。その薔薇はすっかり乾燥してしまったが、捨てるに忍びなく、未だ私の部屋に飾っていた。
父上と会ったのは久しぶりのことだった。同じ城に住みながら、父上と会うことはほとんどなかった。比べても詮無いことだが、「ル・フェイ」は毎日、必ず私の姿を探しに来た。はじめの内はそれがわずらわしく感じられたが、いつの頃からか、それも悪くはないと思うようになった。
父上とは…あの日、よみがえって以来、ほとんど顔を合わすことはない。長きにわたってこのトランシルバニアを不在にしていたのだから、今更それが寂しいだとか、悲しいとは感じない。ただ、もう少し、別の関わり方があっても良いのではないかと、思う。
その日、食堂で酒をのんでいる父上を見つけた。
「…よろしいですか。」
「…好きにするが良い。」
私は父上の向かい側の椅子に腰掛けた。腰掛けてから困った。特に何か話がしたかったわけではない。「ル・フェイ」がいつも、何かと理由をつけて私のもとにやって来た、その大変さを思った。
「飲むか。」
父上は飲みかけのワインのボトルを指して言った。
「…はい。」
父上は新たなグラスにワインを注ぎ、私に寄越した。受け取った私はそれを飲み、不味い酒だと思った。以前は、良い酒しか飲まなかった父上だが、しばらく会わぬうちに嗜好も変ったらしい。
「何か用か。」
と、父上が尋ねた。
「いえ、そういうわけではないのですが。」
「そうか。」
父上はそう言うと私から目をそらした。父上が目をそらす、という行為によって、父上がそれまで私を見ていたのだということに気づいた。
「あの女には、哀れなことをした。」
不意に、父上がそう言った。「あの女」というのが、父上が｢ル・フェイ｣と名づけた彼女のことであることに間違いはなかった。
彼女は父上を想っていた。元は夢魔であったものを、父上によってヴァンパイアとなった彼女。父上を想いながら私に仕え…父上に顧みられる前に消滅した。
「父上は、あの女性を愛していたのですか。」
｢…どうかな。」
「どうかな、とはどういうことですか。」
父上は答えなかった。
彼女は父上が昔、私に話して聞かせた母上に、その面影があった。その面影ゆえに父上は彼女をヴァンパイアとし、母上の名を与えたのだ。父上は何も話してはくれない。だが、恐らくそれは間違いないと思う。
「彼女は父上を愛していました。父上は、それに応えてやるおつもりでしたか。」
父上は私を見た。
「彼女をヴァンパイアにしたのは、ル・フェイに似ていたからだ。」
「それで？」
「それだけだ。」
「彼女が哀れだとは思わないのですか。」
「あれは夢魔だ。そのような感情とは無縁だ。」
「彼女は、父上を慕っていたと、確かにそう言いました。」
「それが私の支配だったとは思わんのか。」
言葉をなくした私の前で、父上はグラスに残ったワインを飲み干し、立ち上がった。
「お前に慕われて、彼女は幸せだった…それでよい。」
そう言って父上は部屋を出た。私は大きく息を付いた。
私が、彼女を慕っていた…？そのようなことは、考えたこともなかった。
私もこの食堂を出ようと、立ち上がった。ふと、今飲んでいたワインのボトルにあるラベルが目に入った。そこに描かれていた女性は、どことなく「ル・フェイ」に似ている気がした。
「父上も素直ではない。」
そう笑って、私はもう一度椅子に腰掛けた。グラスに残っているワインを飲み干した。
先ほどよりも、美味く感じられた。そんな自分自身が可笑しくて、少し笑った。
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