アオノオウ

　早朝の風が、二人の間をすり抜けていった。その風ははるかに、冬の到来をそっと告げていった。
「秋が終わるよ、みちる」
「ええ、分かっているわ、はるか」
みちるは微笑み、背の高いはるかを見上げた。はるかはただじっと、目の前に広がる海を見つめていた。

　海が見たいと突然言い出したみちるに、はるかは笑って車を出した。
　二人がやってくる海はいつも、この場所だった。どのガイドブックにも載らない場所で、夏場でも遊泳に来る人はほとんどいない。どこまでも広がる砂浜、わずかに冬の色をした水面を、小さな波が走る。
　よく二人でここに来た。セーラー戦士として最大の戦いを何とか生き抜けた日の夜。束の間の平穏が破られる予感を感じ取った日の夕暮れ。タリスマンが見つかった翌朝。戦士として生きようと誓い合った朝。初めて人を殺めた夜…。この場所で、数え切れないくらい多くの時を過ごしてきた。
　その場所に、みちるは今、またはるかと共にいる。
「ここに来るのは、久しぶりね」
「そうだね」
はるかは少し笑ったようだが、またすぐに水面に目を戻した。
　セーラー戦士同士の壮絶な戦い。それを乗り越えた後にやってきたのは、思いも寄らぬほどの平穏な日々だった。
　今、二人はせつなとほたると共に生活している。血のつながりのまったくない、いわば他人同士の四人が共同生活を送っていた。
　せつなはどこかの研究所で、何かの研究に没頭している。何の研究か、尋ねてみても「いつか分かりますよ」と笑うだけだ。ほたるは毎日学校に通っている。時折スモール・レディはどうしてるかしらと、寂しげな横顔を見せる以外は、楽しそうに日々を過ごしている。
　そして、みちるとはるかは、その平穏の中で、何かを失ったような気がした。
　勿論、今の生活に満足していないわけではない。何かを奪うために心を痛めることも、何かを奪われて心を傷つけることもない、平和な毎日。だがその中で、何かを見失ったような気がしていた。
　不意に、みちるはサンダルを脱ぎ、そっと脚を水に浸した。秋の終わり、冬の初めの、しかも早朝の水は、すぐにつま先が痺れるほどに冷たかった。
「だめだ、みちる。風邪を引く」
驚いてはるかは、みちるを引き戻そうと手を差し伸べた。だが、その手をすり抜け、はるかに背を向けたまま、猶も二、三歩進む。スカートの裾がわずかに水に濡れた。
「みちる！」
みちるはゆっくりと振り返り、靴のままで水に入ろうとしていたはるかを、そっと手で制した。
「大丈夫よ。私は水の世界の人だもの」
はるかはそっとうなずいた。
　失ってしまったもの、それは二人をつなぐもの。タリスマンを探し出すという使命、この世界を破滅から救うための救世主を見つけるという使命、プリンセスを守るために戦いに身を投じようとの決意。或いは裏切られ、傷ついた心。
　それらすべてを、二人は共通のものとして抱いていた。だが、戦いが終わり、傷ついた心と体もかなり癒えた今、二人がなぜ共に生きようとしているのか、そのことにふと疑問が芽生えたのだ。
　疑問など、何もないというのに…みちるは思う。
　みちるはもう一度、はるかに背を向けた。陽が昇り始め、海と空とを赤く染めた。
「空の蒼と海の青…ぼくたちみたいだ」
背後に、はるかの声を聞いた。
　空の蒼と海の青。よく似た二つの色はしかし、決して交わることはなく、どこまでも別の色である。
「だから？」
振り向いて、みちるは尋ねた。はるかは軽く唇を噛んでうつむいた。
「ぼくたちは、別々に生きなければならないのかな」
「どうしてそんなことを言うの？」
みちるが問うと、はるかはゆっくりと顔を上げ、答えた。
「ぼくたちは同じ使命を果たすために共に生きてきた。今ぼくたちは自由だ。だから、ぼくたちが共に生きていく理由は何もない。だから…」
「はるか」
みちるは微かに笑ってみせた。
「はるかはそれだけのために私の側にいたの？」
そう言って一度言葉を切る。ゆっくりと首を振りながら、言葉を続けた。
「私は違うわ。ただあなたの側にいたかったの」
みちるは、微かに揺れるはるかの瞳を覗き込んだ。
「ぼくだって、ただ君の側にいたかった。…でも、ぼくたちには…目的がない。君の隣にいるための理由がない」
「そんなことを気にしていたの。そんなこと、大した問題じゃないわ」
みちるはゆっくりと砂浜に戻ってきた。右手でそっとはるかの手を取った。
「決して交わらない空の蒼と海の青。私たちみたい」
先ほどのはるかの言葉を繰り返す。
「でも、見て」
空いた左手で、遠く、水平線を指さす。空の蒼と海の青との境界線。
「いつだってあの場所で、空と海が一緒にいるの。…ただ一緒にいるの」
はるかはうなずいた。そして、みちるの手を握り返した。
「そうだね。ぼくたちは空の王と海の王だから」
またいつか、自分たちを見失いかけたらここに来よう。ここで、ただ共にあるだけの空と海とを見に来よう。
「帰ろう。きっと、せつなさんとほたるが心配している」

　白い鳥が一羽、海と空とを横切って飛んだ。

＜Ｆｉｎ＞